近年の木造住宅に対する評価
近年京都における建築界の悲惨な状況は目をおおうばかりです。私の知り合いの工務店は廃業を余儀なくされました。詳しい話はここではしませんが、今建っている一般的な新築物件は建売、注文建築に関わらず設備費に建築費の大きな割合をさいています。かつて私が家業を手伝いだしたころは材木代に総工費の3割から3割5分をかけました。それ以前は4割、もっと昔は5割というものでした。それほど木材にお金をかけたものですからみんなが家に使ってある木を自慢し、周りは褒めたものです。一度家を建てるとなると3代は引き継いで住める家をめざしました。残念ながら現在の家は木材をそのように評価しなくなってしまいました。消費者にとって予算が決まっている中での安易な機能性とデザイン優先は地価の上昇とも関連して住宅も単なる消耗品の地位にひき下げてしまいました。そこには木造住宅本来の長期になるほど味がでて親しみが沸いていくという考え方はありません。ほとんどがローンの終了ぐらいまでなんとかもってくれればあとは土地だけでも資産として残ればそれでよしとする考え方が定着してしまったようです。
建築コストダウンをめざした省力化による弊害
例えば建売の場合、地価に住宅の総工費を乗せるわけですから建築費をおさえる必要があるのは当然ですが、それに反比例してシステムキッチン、床暖房、オール電化等設備費のほうはどんどん増加しています。つまりどこかで出費を控えなければなりません。そのためにはまず一番目につく人件費をおさえようとします。これは単に人件費の切り下げを意味するのではありません。すべての工程において省力化することです。木造構造材はプレカットといって工場で機械によって仕事をしてしまいます。内法材も大工が仕事をすることは無くなってしまいました。家はプラモデルのキットになって現場に運ばれてきます。過去のように工務店が仕事を請け負って材木屋さんの木場をかりて仕事をして、材木屋さんが現場へ木材を運ぶ構図は消滅してしまったのです。現場での仕事でカンナやノミを使うことは無くなったばかりでなく、格安のヨーロッパ産の集成柱や間柱等は材質が柔らかすぎるために釘うちではなく全て電気ドリルによるビスどめが当たり前となりました。以前によく使われた米松や米栂の一等材はねじれや割れがよく発生したのでこのようなおとなしい性質の集成材が使用されるようになったのです。また窓枠、開口枠、巾木なども切りそろえておいても狂いの出ない性質のものが好まれるので実際は木質ではないものが使用されています。また和室も無い家が増えました。これらのことは人の手間を省き工期を短縮する効果を得ていますが、反面職人の技術の低下を招いていることは否定できません。また設計士にいたっても天然木材の樹種による性質や木の使い方がわからないというようなことが起こっています。
京都の町家にみる木造建築への懐古
近頃京都における町家に憧れ住みたいという人が増えてきました。実は私も昭和初期に祖父である国太郎が立てた町家に住んでいます。幼いときから住んでいるのでそのよさや素晴らしさについては実感が無かったのが実情です。むしろどちらかと不便さのほうが感じられたものです。ところが、現在の建売物件などを見ているとどうしても安っぽく感じられてしまうのと、居住空間としてのゆとりや癒しということからはほど遠く感じてしまいます。かつてうなぎの寝床と呼ばれた町家は車社会からはガレージが無いことから正面を改築されるか全面取り潰しという運命にあったのですが、一度潰してしまうと建築基準法や消防法により又同じようなものを建てることができないことから保存しようという運動がおこりました。京の町並みを守ることは西陣織のような伝統産業を守ろうという京都独自の文化保護と同様に、もともと衣、食、住といった人間本来の根本的な生活要求の現われであるので必然的な運動だと思います。人がくつろげる空間は話しがはずみ笑いが絶えません。家族が集える場があります。またそこの住人だけではなく、訪れる人にとっても気持ちのいいものです。そんな効果があるのが町家の構造なのです。特筆するべき特徴として町家という建て方は木造という利点を最大限に生かしています。人がやすらぐことができる自然界の木を見せる演出はもとより驚くほど改造が容易な作りとなっています。例えばごく簡単な改造は内法材に色をつけることや、間接照明を取り入れてみることです。住む人の好みでどんどん変えていくことができます。現在多くの町家がレストランやショップといった店舗として使用されるのもそういった用途への改造が容易であるためだともいえます。逆に今新築されている一般住宅がこういったものに転用される可能性はほとんどないといえます。空間に「ゆとり」あるいは「あそび」が必要なのと「やわらかさ」があることが大切なのですがこれらのことは木材や石、植木といった天然素材や光のような環境や作り手の心の調和によって完成されているからです。木造建築への懐古は人間が持つ自然との共生意欲の表れとも考えられます。
木がもつぬくもりについて考えてみました
木が持つぬくもりも先に述べました「やわらかさ」と共通するものなのですが人が安心して接することがと感じられる要素です。町中で暮らす多くの人がマンションあるいは木質系の内装を使用していない家に住んでいます。和室も作らず、あっても単板を貼られた合板やクロスの壁に集成の内装と見せかけだけです。普段は周囲が無機質なものに取り囲まれていても何も意識することは無いと思います。しかし、ちょっとアウトドアーに飛び出して自然の中に入ったとき安心感を得られるのは人が生物として生きている証明にほかなりません。自然を感じるということは視覚、嗅覚、肌や呼吸といった感覚が大脳に刺激をもたらしてくれるといった理屈なのかもしれませんがそんなことより接してみることによって自分がやすらげるということにつきると思います。